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福岡高等裁判所宮崎支部 昭和35年(ナ)1号 判決 1960年10月06日

原告 松尾徳助

訴訟代理人 江川庸二

被告 宮崎県選挙管理委員会 代表者委員長 深見和彦

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「原告から提起された昭和三四年四月三〇日執行の宮崎県東臼杵郡椎葉村議会議員の一般選挙における当選の効力に関する訴願について、被告が昭和三五年一月二〇日になした裁決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、その請求原因として、つぎのとおり述べた。

(一)、原告は昭和三四年四月三〇日執行の宮崎県東臼杵郡椎葉村議会議員の一般選挙(以下一般選挙という)に当選した。しかるに、訴外那須米蔵から、椎葉村選挙管理委員会に対し、原告の右当選の効力に関する異議の申立をなしたところ、同委員会はこれをいれ、昭和三四年六月二九日原告の当選を無効とする旨の決定をした。そこで原告は同年七月二〇日被告に対し、右決定の取消を求める旨の訴願を提起したけれども、被告は昭和三五年一月二〇日右訴願を棄却するとの裁決をし、該裁決書は同月二四日原告に交付された。この裁決理由の要旨は原告が前記一般選挙の日である昭和三四年四月三〇日以前三ケ月以来椎葉村に住所を有していないから、原告は右一般選挙につき、被選挙権を有しないことになり、したがつて、原告の当選を無効とした村委員会の決定は相当である、というのである。

(二)、しかし、原告はつぎの理由によつて明らかなように、昭和三四年四月三〇日以前三ケ月以来椎葉村に住所を有しているのである。

(1)、原告は昭和六年以来椎葉村に居住の意思をもつて起居し、他の地を生活の本拠とする意思を持つたことはない。ことに昭和一七年椎葉村議会議員となつてからは尚更のことである。

(2)、さらに、つぎの客観的事実からしても原告の生活の本拠は椎葉村にあることは明瞭である。

(イ)、原告は昭和六年以来椎葉村大字大河内八一八番地に本籍を有しており、同所七〇二番地に住民登録があり、同所で主食の配給を受け、同所に住家、家財道具を有して現実に居住し、選挙権を行使してきている。

(ロ)、昭和一七年村議会議員となつて正当の理由なしに同議会に欠席したこともない。

(ハ)、原告は建設業者であつて、その事業活動に必要な資材、機具の大部分を椎葉村内に常置し、事業活動面においても、その中心は椎葉村である。もつとも工事の入札、連絡の便宜上宮崎市内に支店を有しているが、本店は名実共に椎葉村にある。

(ニ)、原告の資産の大部分も椎葉村にある。

(ホ)、村民税(均等割・所得割とも)も椎葉村役場に納付している。

(ヘ)、原告はその事業の関係で、他所に出張することもあるが、それでも一ケ月の三分の一ないし二分の一は椎葉村の居宅で起居している。これは原告が宮崎市に支店を設置する以前と以後とにおいて変りはないし、昭和三四年一月以降においても同じである。

(ト)、原告の椎葉村の居宅は仮建築であるが、これは原告が昭和二九年の台風災害によつて住宅を流失したので、その敷地を修復し本建築の資材まで用意したけれども、同所が仮のバス道路になつていて、永久橋架設場所が決定されないため、いきおい原告の家屋敷地も決定できないところから、本建築の運びにいたらなかつたのであり、昭和三五年五月三一日橋が架設されたので、その後本建築に着工している。

(チ)、前記一般選挙において原告の反対派から原告は椎葉村に住所を有しない旨の悪宣伝がなされたにもかかわらず、第六位の高点をもつて当選したこと自体、選挙人が原告の住所が椎葉村にあることを認めている証左である。

証拠として甲第一ないし第二八号証(うち、第二四号証は一ないし三)を提出し、第二四号証の一ないし三は昭和三五年七月当時における椎葉村の原告の居宅と居宅附近の架橋状況の写真であると述べ、証人黒木義明・中竹政蔵・中武藤子・黒木京子・勢井博美の各証言ならびに原告松尾徳助の本人尋問の結果を援用し、乙第五号証の二、第七号証は不知、同第三一号証の一ないし五が、原告の管理する宮崎市桃山墓地の写真であること、その余の乙号各証の成立はいずれも認める、と述べた。

被告訴訟代理人は主文と同旨の判決を求め、答弁としてつぎのとおり述べた。

原告主張の請求原因(一)の事実は認める。(二)の(1) については、原告がその主張のように椎葉村議会議員になつたことは認めるが、原告が椎葉村を生活の本拠とする意思をもつて、起居したとの事実は否認する。(2) の(イ)については、原告の主張の本籍・住民登録・選挙権行使の点は認めるが、その余の事実は争う。椎葉村住民登録事務の実態をみると、村内に本籍を有する者については、本人の転出届がない限り、椎葉村に居住していないことが調査の結果判明しても、職権による消除は実施せず、非本籍者についてのみ、三ケ月以上村内に不在のことが確認されたものにつき、職権消除をなしており、その件数は昭和二八年度一四三件、昭和二九年度一九三件、昭和三〇年度一六二件、昭和三一年度一六七件、昭和三二年度三四〇件、昭和三三年度六九七件となつているのに、在本籍者については一件の職権削除もない。原告が椎葉村に本籍を有するがために職権消除がなされずにいるにすぎない。また原告は椎葉村の居宅に家財道具を置いて現実に生活していると主張すゐけれども、家財道具はその大部分を宮崎市の住家に置き、同市の他の中流家庭に比して遜色のない家具調度品を所有しているが、椎葉村に所有する家屋は粗末な整理タンス・戸棚各一個が置いてあるだけで、電灯などもなく、家屋もルーフイング葺の粗末な小屋というほかはなく、宮崎市にある、家屋・家財道具に比較して格段の相違が認められ、あくまでも一時的な宿泊施設であり、原告の経済生活から考察しても、椎葉村に生活の本拠をおいて現実に生活しているものとはとうてい認められない。さらに選挙権行使の点については、前記一般選挙関係では昭和三四年四月四日権葉村選挙管理委員会が基本選挙人名簿に原告は選挙権がない旨の表示処分を行つたため、原告が宮崎地方裁判所に提訴し、同裁判所の表示処分執行停止の決定を得て投票したいきさつである。(2) の(ロ)の事実は認めるが、原告は昭和三〇年には部落に居住していないという理由で大河内公民館分館長会議(公民館長は大河内の区長の仕事をし、分館長は部落世話人の仕事をしている)において満場一致除名された事実などからして昭和三〇年四月三〇日執行の椎葉村議会議員の一般選挙の際は、既に原告は被選挙権がなく当選人となり得なかつたにもかかわらず、椎葉村選挙管理委員会の調査不十分により当選人となつたものであり、地方自治法第一二七条によると、議員の資格取得後においては、公職選拳法第一一条・第二五二条の規定に該当する場合のほか、失職原因としての被選挙権の有無は議会がこれを決定することになつているので、議会の決定がない限りは、たとい住所を欠ぐためもともと被選挙権がなかつたとしても議員の身分を失うことはないのであり、原告はこの議会の決定がなかつたため議員の職にあつたにすぎない。

(2) の(ハ)の事実は原告が建設業者である点を除き、その余は争う。原告が建設業法第六条により宮崎県知事に届出た登録申請書には営業所の所在地を宮崎市と記載し、また同時に提出した原告の履歴書の住所も、宮崎市と記載されており、現実に事務連絡のなされている場所も宮崎市であつて、宮崎市の事務所は約二、二五坪で居宅の一部に設置され、宮崎局二、七八二番の電話も架設されており、机、椅子、事務用器材、器具、帳簿を備え、専任の事務員を雇傭して事務処理にあたらせている。これに反し椎葉村の家屋は前述のようにルーフイング葺の粗末な小屋で、事務所の表示もなく、しいて事務用品といえば約一坪の土間に机と椅子を置いてあるだけで事務員も事務用器材、帳簿類の備付けもないし、また別棟に単に建設業に使用する器具などを収容しているのみで、事業を実施するときの資材は宮崎市から運んでいる状態である。なお右椎葉村の家屋は原告の妻の弟鎌倉定美が管理しているが、同人は日雇人夫などの労役によつて自活し、原告からの賃金などによつて一切の生計を維持しているものではない。

(2) の(ニ)の事実は争う。原告は椎葉村に焼畑七反三畝五歩(台帳面積)、仮建築のルーフイング葺家屋建坪約二〇坪およびルーフイング葺倉庫建坪約一五坪を所有し、原告の妻松尾シゲ子は焼畑二反(台帳面積)を所有しているが、いずれも固定資産税の課税対象にすらかつていない。これに反し、宮崎市には原告名義の家屋木造二階建瓦葺モルタル塗建坪六一坪九合七勺、原告の妻シゲ子名義の公衆浴場木造平家建瓦葺モルタル塗建坪四五坪五合、宅地二〇七坪および田(現況宅地)一畝一一歩を所有しており、昭和三四年度の固定資産税は原告分一二、五四〇円、妻シゲ子分一二、九〇〇円を課税されていて、その価値において椎葉村に所有する財産とは比較にならない程である。

(2) の(ホ)の事実中原告が村民税のうち均等割の分を納付していることは認めるが、所得割の分を納付していることは否認する。原告の椎葉村と宮崎市の各住民税の課税状況はつぎのとおりである。

椎葉村

昭和三〇年度 零

昭和三一年度 四〇〇円(均等割のみ)

所得割二五、七四〇円を納付したが還付加算金を付して三〇、一〇八円返還している。

昭和三二年度 四〇〇円(均等割のみ)

昭和三三年度 四〇〇円(均等割のみ)

昭和三四年度 四〇〇円(均等割のみ)

宮崎市

昭和三三年度 三〇、八三〇円

昭和三四年度 一五、二〇〇円

このように原告は村民税として地方税法第二九四条第一項二号の均等割のみを納付しているのであつて、所得割は昭和三二年度以降は宮崎市に納付している。

(2) の(ヘ)の事実は争う。原告は昭和二七年宮崎市に家屋を建築し、事務所を開設してからは、同市と椎葉村の間を往来していたものであり、昭和二九年九月の台風災害による家屋流失後においては、主として椎葉村内における工事請負期間中のみ、椎葉村に仮建築した家屋に起居し、それ以外はほとんど宮崎市を中心として日常生活を営んでいるのである。

(2) の(ト)の事実のうち架橋計画のいきさつは認めるが、その余の事実は争う。原告は右現地に所有する土地を甲斐達教に貸付け、同人は同地上に家屋を建築している程であるから、原告主張のような事情ならば、右土地を他に賃貸するはずがない。

(2) の(チ)の原告の当選およびその得票数の点は認めるが、その余の主張事実は争う。選挙人は原告の住所を調査して投票したわけではなかろうし、むしろ、原告が昭和一七年以来村議会議員であつたこと、原告が椎葉村内およびその周辺の町村で建設工事を請負い、その人夫として選挙人の多くを雇傭していたことなどから原告の氏名を知つていたため投票したと思料されるし、かりに選挙人が原告の住所を椎葉村にあると認定したとしても、それと原告の被選挙権の有無とは別個に決定されるべきは当然である。

以上のほか、原告は椎葉村ほか数ケ村出身の宮崎市在住者で組織する親睦団体「耳水会」の会長でもあり、また、宮崎市長、宮崎税務署長、宮崎県税務事務所長が原告の住所を宮崎市と認定して課税している事実、宮崎市において昭和三二年の基本選挙人名簿に登載されていた事実もあり、以上を総合すると原告の住所は宮崎市にあることは明らかである。

証拠として、乙第一ないし第三一号証(うち、第二・二七号証は各一ないし四、第五・八号証は各一・二、第三一号証は一ないし五)を提出し、第三一号証の一ないし五は原告の管理する宮崎市桃山墓地の写真であると述べ、証人山下裕・押川武義・甲斐康敏・椎葉貴の各証言を援用し、甲第二一ないし第二三号証は不知、第二四号証の一ないし三が原告主張の写真であること、ならびに、その余の甲号各証の成立はいずれも認める、と述べた。

理由

原告主張の本訴提起にいたるまでの経過的事実(請求原因(一)の事実)は当事者間に争いがない。

そうすると、本件における争点は、原告が本件一般選挙の執行された昭和三四年四月三〇日以前三ケ月以来椎葉村に住所を有していたかどうかである。

ところで、公職選挙法第九条第二項の住所とは、その人の生活にもつとも関係の深い一般的生活、全生活の中心を指すものと解すべきであるから(最高裁判所昭和三五年三月二二日言渡判決参照)、この見解に立つて原告の住所について判断する。

成立に争いのない乙第二号証の一ないし四・第四・一〇・一一・二〇・二二・二三・二四・二九・三〇号証を綜合すると、原告の生活関係推移の概要がつぎのとおり認められる。

従来原告は椎葉村大字大河内七〇二番地に若干の宅地を有して居を構え、同村内に山林を所有して植林をなし、兼ねて建設業を営んできたところ、昭和二五年八月妻シゲ子と婚姻し、同時に椎葉光吉夫妻を原告夫婦の養子に迎えて同居していたが、昭和二六年頃宮崎市高千穂通三丁目一九七番地に家屋を建築し「土木建築製材業松尾建設宮崎支店」なる看板を掲げ、ここを建設業の事務所兼居宅として使用しているうち、昭和三三年初頃右家屋を売却して同市中津瀬町三〇番地の四に宅地一五七坪を購入し、木造モルタル塗セメント瓦葺二階建延坪約六一坪の居宅、ならびに、これに隣接して木造モルタル塗平家建浴場建坪四七坪を建築し、居宅は原告、宅地と浴場は妻シゲ子の各所有名義に登記し、居宅には前示看板を掲げて建設業の事務所として使用し、妻シゲ子は同年六月、営業許可を得て爾来公衆浴場を経営するにいたつた。一方椎葉村の居宅は昭和二九年九月一三日台風による水害のため宅地もろとも流失し、当時同家に居住していた前記養子夫妻とその二児が死亡する厄に遇つたので、原告は同年一〇月頃同所附近に一応仮建築の家屋を建築し、一部は原告の起居の用に供し、他は原告の工事人夫の宿泊所や原告の妻の弟の住居や資材格納庫・従業員住宅の用に供し現在にいたつている。そして右の宮崎市と椎葉村の居宅を除いて他に原告が一般的生活関係として依拠している場所のないことは右の証拠によつて明らかであるから、前記一般選挙における原告の住所は右の宮崎市の居宅か椎葉村の居宅のいずれかにあるわけであり、そのいずれであるかは両者を総合して比較検討することによつて明らかとなる。成立に争いのない乙第三・四・六・一八・二二・二四・二九・三〇号証によると、原告が建設業事務所兼居宅として使用している宮崎市中津瀬町三〇番地の四の建物は上質の材料を用い、細部に亘る普請が施され、階下に玄関横の事務室の外、居間客間七室があつて装飾品、家具類、電話も完備し、前示看板を掲げ、事務員一名を雇入れ、また、原告は昭和三二年一〇月一一日建築業法第六条による登録申請をなすにあたり、主たる営業所の所在地を前記宮崎市高千穂通三丁目一九七番地として願出で、右登録の有効期間の満了に伴う登録更新の申請を昭和三四年九月二六日なすにあたり、主たる営業所を同市中津瀬町三〇番地の四と記載し、営業用貨物自動車の登録には住所を右の場所として登録し、名刺にも本店として右の場所を表示してこれを常用しており、昭和三二年の暑中はがき、昭和三三・三四年の年賀はがきにも右の場所を住所として差し出していること及び昭和三二年度以降市民税を納付していることが認められる。そして、成立に争いのない乙第一八号証・同甲第一三ないし第一五号証によると、原告の請負工事は昭和三一年以降はそのほとんどが宮崎県より注文を受けた椎葉村内の工事であり、右県庁所在地である宮崎市において、契約の締結、代金の支払が行われていることが認められる。一方原告松尾徳助の本人尋問の結果の一部(後記措信しない部分を除く)と甲第二四号証の写真によると、原告は昭和三五年五月以後になつて椎葉村大河内の住居の本建築にとりかかつていることが認められるが、その以前における前記椎葉村の居宅は前記証拠によると、木造ルーフイング平家建のいわゆる堀立小屋で、うち原告の起居に供用する建物は建坪約二二坪で、その北側の半分六畳二間の板敷の部分は人夫の宿泊所として使用し、南半分は八畳一間の外二畳の板の間および土間の台所があり、整理箪笥・机各一個があり、表札・看板の類はなく、その南側の住家八坪には原告の妻の弟にあたる訴外鎌倉定美が家族とともに居住していて、道路を隔てて約一一坪の資材格納庫ならびに約八坪の従業員住宅が設けてあり、原告は前記災害後もとの位置に宅地を造成し本建築用の木材も製材して保管していたが昭和三一年に至つて右宅地の一部を訴外甲斐達教に貸与し、右建築資材は宮崎市に運搬して前記浴場の建築に使用したことが夫々認められる。

つぎに、成立に争いのない乙第一二ないし第一四号証によると、原告は椎葉村の家屋に起居することはあるけれども、それは椎葉村内における工事施行中のときで、その他は宮崎市の居宅に妻シゲ子と起居しており(シゲ子が常時宮崎市の居宅にいることは後記認定のとおりである)、成立に争いのない甲第八号証の一部(後記措信しない部分を除く)ならびに、成立に争いのない乙第二九号証と同第二号証の三に同第三一号証の一ないし五(同号各証が原告の管理する墓地の写真であることは当事者間に争いがない)によると宮崎市の右居宅には造りつけの仏壇があり、前記亡養子夫妻ならびにその二児の位牌四個が安置してあり、原告夫婦は昭和三〇年に宮崎市桃山墓地を松尾家の墓地に選び、昭和三一年一二月に累代の墓を建てるとともに、右四名の墳墓を改葬し、将来改葬予定の亡養子一名の分とも併せいずれも花崗岩の墓石五基を建て、玉垣をもつて囲み、小砂利を敷き石灯籠をも設置した恒久的な墳墓を築造するにいたつたことが認められ、証人山下裕・押川武義の各証言に成立に争いのない乙第九・一六・一九号証を総合すると、原告は昭和二八・九年頃は宮崎市清水地区内の第一三班の二の班長をつとめ、地区の夏祭には大口寄附をし、交際する近隣者は原告を市民と思いこんでいたこと、また昭和三三・三四年頃は宮崎市在住の椎葉村出身者をもつて組織する親睦団体「耳水会」の会長をしていたことが認められるとともに、原告の申出により、椎葉村議会の招集通知も宮崎市の右居宅宛になされていたことが認められる。一方成立に争いのない乙第一〇・一二・一三・一四号証と証人甲斐康敏の証言によると、昭和三〇年以降原告は椎葉村大字大河内の部落常会に出席したこともなく、P・T・A会費も支出していないため(大河内部落では通学児童のいない家庭からも会費をとつていた)、昭和三〇年には公民館分館長会議で原告を部落住民と認めない旨の決議までなされたことが認められる。もつとも、証人中武藤子・黒木京子の各証言の一部によると、原告は昭和三四年一月から同年四月までの間は他の期間と比較して椎葉村の居宅に起居した日数が多かつたことが認められるけれども、成立に争いのない甲第二七号証の一部(後記措信しない部分を除く)によると原告はすでにその前年末に本件一般選挙に立候補を決意していたことが認められるので、前記認定事実と対比考察すると、選挙運動のためと、被選挙権がないと認定されることを虞れて特に起居の外形をとつたことが窺知できる。

つぎに、原告の妻シゲ子の浴場経営ならびに一般生活関係について考察すると、前認定のとおり、昭和三三年六月許可を得て、宮崎市中津瀬町三〇番地の四に公衆浴場を経営するにいたつてからは同所に常時起居しており、成立に争いのない乙第一一・二〇・二一号証によると、同人の宮崎市における住民票には昭和三〇年三月二九日、宮崎県東臼杵郡椎葉村大字大河内七〇二番地から宮崎市高千穂通三丁目一九七番地に転入、昭和三三年八月五日宮崎市中津瀬町三〇番地の四に転居し、現在にいたつていること、市民税も納付し、宮崎市の基本選挙人名簿には昭和三二年から登載され、投票をしてきていることが夫々認められるとともに、同人は右浴場開業後は椎葉村の原告居宅には起居せず、昭和二八・九年頃よりは椎葉村の婦人会にも全く出席しなくなつたことが認められる。

以上の各認定に牴触する甲第一・二・四・六・七・八・二五・二七・二八号証の各記載部分と証人黒木義明・中竹政蔵の各証言の一部、原告松尾徳助の本人尋問の結果の一部は前示各証拠に照し措信し難いし、他に右認定を妨げるに足る証拠はない。

なお、原告はその資産の大部分を椎葉村に有すると主張するけれども、これを認めるに足る証拠はなく、かえつて、前示証拠と成立に争いのない乙第二三号証を総合して考察すると、宮崎市における資産の方が多いことが窺知できる。

以上の各事実を総合すると、原告の生活の中心は椎葉村より漸次宮崎市に移行し、昭和三四年四月三〇日以前三ケ月以来原告の住所は、宮崎市中津瀬町三〇番地の四にあつて椎葉村にはなかつたと認めるのが相当である。

原告が椎葉村に本籍を有し、住民登録をし、村民税の均等割を納付していること、昭和一七年以来同村の村議会議員をしていること、前記一般選挙において第六位の投票を得たことは当事者間に争いがなく、また、成立に争いのない甲第一・二・一九・二〇号証の各一部によると、原告が椎葉村大字大河内の祭礼などの行事に若干の寄附をしていること、椎葉村森林組合に出資金を支出していることが認められ、さらに、甲第二四号証の一ないし三(昭和三五年七月当時における椎葉村の原告の居宅の写真であることについて当事者間に争いがない)と弁論の全趣旨によると、原告は昭和三五年五月後になつて椎葉村大字大河内に本建築の居宅を建築しつつあることが認められるけれども、これらの事実をもつてしても前認定を覆えし得ない。

されば、右と同旨の本件裁決は相当であり原告の本訴請求は理由がないので、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について、民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 桑原国朝 裁判官 後藤寛治 裁判官 蕪山厳)

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